名和クライミングボード建設前夜
(平成9~10年)
 平成9年4月、鳥取県名和町(現大山町)に京都から赴任した。当時は、この界隈では人工壁は全く無く、最も近い人工壁でも、宍道町森林公園か鳥取大学の人工壁であり、どちらも80km以上離れていた。大変だったが、週に一回は、宍道町森林公園に通った。当時は、島根フリー協会長の阪井学さんや水野晴秀君が通っていた。その頃、水野君はめちゃくちゃウブな中学生で、まだ11台、阪井さんは12ノーマル前後ぐらいをさわっておられた。毎週、岩場に通うのは、阪井さんぐらいで、どこへ行くのも、一緒だった。鳥取県下ではちょうど田淵さんが結婚して山陽に出てしまった時期にあたり、鳥取大学山岳部の学生を除いては岩登りを精力的にする人はいない停滞期にあった。

 そのうち、貴重な人口壁も台風の影響を受け使用禁止となり、それに追い討ちをかけるように、仕事がめちゃくちゃ忙しくなり、クライミングを止めざるをえなくなった。約半年間、クライミングをしなかった。それを取り戻すため、当時仕事場であった、山奥の廃校にコンパネ8枚分(縦2枚×横4枚)のプライベートウォールを作った。材料は廃校の一室にあったコンパネや角材を使用した。この部材を発見したとき、その建築部材が、「これで人工壁を作ってくれよ」と言うインスピレーションを感じた。何の迷いも無く、空いた教室に人工壁を作りだした。その部材には「ヤグラ」と書かれてあり、昔それが、分校在りし頃、学芸会や運動会で児童達に使われていたのだろうと、その古きよき時代の学校風景に思いを馳せながら、トレーニングボードを作った。ボードのモデルは、京都大学の明誠館の地下にあったフリークライミングクラブの人工壁(通称M地下ボード)であった。この壁は、私に、やる気さえあれば自分で人工壁を作ってトレーニングできることを教えてくれた壁でもあった。

 これまでのブランクを取り戻すべく、仕事の合間に、このプライベートウォールでトレーニングを開始した。ようやくトレーニングも軌道に乗り身体も元に戻りだしていた、そんな矢先に衝撃的な事件が起こった!それはお盆を迎えようとしていた頃、なにやらこの部落の方々が、わらわらと廃校に集まり、「ない!ない!」とか「全然たわん(足らん)!」「建たん!」とか言って大騒ぎしていた。見ると、なんと!人工壁の残りの部材で、盆踊りの櫓を建てようとしているではないか!夏の午後、蝉の声が頭の中で鳴り響き、暑さと後悔とが混ざり合い、思わず眩暈がした。やがて、部落の方が、ホールドの付いた、変わり果てた姿の櫓を発見し、「アーッ!なんだいやーっ、このブツブツは!」という悲鳴にも似た叫びが、蝉の声が鳴り響く廃校中に響き渡った。部落の人々は、まるでUFOを見るかのように、目をパチクリさせて、それを眺めておられた。これが、彼らにとって最初で、最後の人工壁との劇的な出会いであった。一時は、「盆踊りができん。ご先祖様を迎え入れられん」と大騒ぎになった。後日、役場よりお叱りを受け、撤去命令がおりた。

歳月はさらに流れ、私とクライミングの距離もさらに開いた。撤去した部材やホールド等が、単なる粗大ゴミに変貌しようとする頃、鳥取県山岳協会の亀尾氏に、その受入先が米子市内にないかを照会した。そして、米子工業高校の山岳部の部室内に移設されることが決まった。平成10年の暮れであり、規模はコンパネにして、高さ2枚分、幅5枚分、傾斜135度であった。

(平成10~13年)
米子工業高校時代は、使用が毎週水曜日19時以降のみと極めて限定された使用状況だった。そして、ちょくちょく使用禁止があり、ほとんど練習にはならなかったが、それほどクライミングに対してモチもなく、サロンとしての役割の方が高かった。そのため、この場所でよく山行計画等が話し合われたりした。この頃の常連メンバーは、河合さん、井上さん、香田さん、山田さん、安井先生、岩波さん、小坂さんくらいだった。これが名和ボード建設の際の核になったメンバーでもあった。どうでもいい事であるが、この頃の私の体重は最高潮を迎え85kg近くあり、役場の2階に上がるのに息を切らせていた時代で、身体検査をすると、中性脂肪値や悪玉コレステロール等、さまざまな数値が赤字で記載されており、所見の欄には、肥満で、なにやらこの先あまり長生きできないような事が書かれてあった。当然、クライミングのほうも、2ルンゼの入り口にある5.9のルートも普通にテンションを入れていたし、その奥にあるフェイス(11a~b)に至ってはハングを越せずに敗退するという有様だった。自分自身クライミングは心臓に悪いので辞めようと考えていた。

 さて、話は戻る。山岳部の高校生達は、当初このボードに少し興味を見せたものの、どうやって登っていいかが分からないことから、やがて誰もがさわらなくなってしまった。そしてボードは単なる邪魔な粗大ゴミと化し、終には撤去の上、出ていくことになった。これにより、次の移転先をみんなで真剣に探し回ったが、なかなかいい場所が見つからなかった。私も駄目もとで、名和のトレーニングセンターに移設できないか、提案書を町長に提出した。これが、予想外の進展を見せ、当時の堅物の教育長もそれに興味を示した。その理由は、学校週休2日制導入にあたって、その休日を児童がどう過ごすかという問題の一つの受け皿になりはしないかという期待からだった(とんだ当て外れになったのであるが・・・)。とりあえず撤去される数日前に、その当時の教育長をボードに案内した。そのボードのあまりにも汚さ、薄暗さ、チンケさに対し、しばし絶句し、無言のまま帰っていかれた。せめて、ミラーボールでも点灯さしておけば良かったと後悔した(エッ・・・余計にダメって?)。

 大失敗の現地視察後に、どういう訳か町長からのゴーサインが出た。その条件として、設置する場所に調和したものを作る(汚いのはダメ)という条件が付いた。そのためリード壁はイエローの型枠用のコンパネを使用した。壁の構想は私が素人考えで、こんなん本当に作れんのかな?と思いながらいい加減に書き、それを鳥取県山岳協会員であり工務店を経営されている山本氏が具体的に設計された(この設計は本当に大変だったと思う)。そして、それをもとに算出した費用を県山岳協会が全面的に負担することになった。その額は約80万円くらいであったと思う。この当時はお金のことから設計や施工のことまで県山岳協会の全員が奔走した。そして、これが元になりクライミング委員会なるものも立ち上げられたと記憶している。


第4回名和クライミングクラブ総会を終えて
                               平成18年4月
                               事務局長 辻  信 広
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by nawaclimbingclub | 2006-05-11 10:17 | 局長のひとりごと | Comments(2)
Commented by mwmatsue at 2006-05-12 19:29
局長とはあちこち遠征に行きましたよね。懐かしいですね。
中学生だった水っちが、今では車乗ってるし結婚してるしで…。僕らも歳を取るわけですよね。

Commented by 京都の老人 at 2007-01-12 13:05 x
お久しぶりです。きょくちょ~とやらに出世したようですなぁ。
H氏もやんしょうに行ったらしいけど、一緒に登った?懐かしいねぇ、ワシもまた行きたいなぁ。床屋とか(笑)
しかし、やぐらの話を改めて文章で見るとまた笑える。今車無いので備中とかには行きづらいけど、また平川でバカ騒ぎしたいものです。
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