カテゴリ:局長のひとりごと( 5 )
まとめ
ここに至るまでには、以上のような様々な段階があり、それに際して様々な人々の協力と努力があったということを書いてみた。
今にして思えば、廃校でのあの事件が、今の名和ボードに繋がった事になる。奇妙なことに、2度の撤去という危機に直面したからこそ、ここまで充実した施設ができたのだと思う。廃校での最初の撤去がなければ、未だにプライベートウォールであったろうし(私自身、人との繋がりの大切さを学ばなかっただろう)、米子工業高校を追い出されなければ、クライミングはここまでの広がりを見せなかったに違いない。
危機の度に発展を重ねていき、そこに強い結束が生まれ、それが結実して名和ボードが誕生したということになる。ここに名和ボードの特徴が顕著にあらわれている。それは、このボードを作り出した力は、クライマー自身の自主性と結束力、そして自己奉仕の精神であり、その力が脈々と、成長しながら現在に受け継がれている。だからこそ、この施設を使用するクライマー自身が自分たちのものであるという自覚と責任を持って、ボードの維持・管理と発展を図っていかなければならないし、クライミングコミュニティーの成熟を目指さなければならない。
自由にクライミングできる恵まれた環境とは、クライマー自身が果たさなければならない責任の自覚の上に成り立っているだろうし、クライミングコミュニティーの中での自分との対峙から生まれてくるものと私は考えています。そして、それを実現するための象徴として、名和クライミングクラブが生まれたのだと私は信じています。

                       回名和クライミングクラブ総会を終えて
                                平成18年4月
                                事務局長 辻  信 広
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by nawaclimbingclub | 2006-05-17 15:24 | 局長のひとりごと | Comments(4)
クライミングボード建設(平成13年5~7月)
建築資材搬入に先立って、垂木の加工やコンパネの穴あけなどの下準備を、山本氏の仕事場を借りてみんなで行った。初夏の強い日差しのもと真っ赤に日焼けして働いた。昼休憩には外でビールを飲みながらバーべキュウをし、午後からの作業は怪しい手つきだった。この時の建築資材の買い付けや仕事場の提供、大量の資材搬入(ユニック車を出してもらった)、足場の貸し出し、工賃や手間賃、果ては、この時の飲食まで、全て山本氏が提供したものであり、これがなければボードなどはとても作れなかったと思う。

壁の工事自体は、こうした下準備もあり、搬入、搬出を含めて延べ4日間の作業で終了した(期間は約1ヶ月弱程度)。実際の建設工事の時には、山本さんと米子クライマーズクラブの方(溝口在住で、名前は忘れてしまった)の2名の棟梁の下、約10名が働いたため、あっという間にできた。ただし、このときにはメインウォールの上部ルーフ帯はなく、コンパネ4枚分の高さで終わっていた。これが名和ボード誕生当初であり、以後段階的に拡張していくことになるのである(また、その話についてもふれてみたい)。今の規模からすると、こじんまりとしたボードであったけれども、米子工業高校時代の時と比べると格段の差があった。

第4回名和クライミングクラブ総会を終えて
   平成18年4月
   事務局長 辻  信 広
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by nawaclimbingclub | 2006-05-15 11:50 | 局長のひとりごと | Comments(1)
名和クライミングボード建設前夜
(平成9~10年)
 平成9年4月、鳥取県名和町(現大山町)に京都から赴任した。当時は、この界隈では人工壁は全く無く、最も近い人工壁でも、宍道町森林公園か鳥取大学の人工壁であり、どちらも80km以上離れていた。大変だったが、週に一回は、宍道町森林公園に通った。当時は、島根フリー協会長の阪井学さんや水野晴秀君が通っていた。その頃、水野君はめちゃくちゃウブな中学生で、まだ11台、阪井さんは12ノーマル前後ぐらいをさわっておられた。毎週、岩場に通うのは、阪井さんぐらいで、どこへ行くのも、一緒だった。鳥取県下ではちょうど田淵さんが結婚して山陽に出てしまった時期にあたり、鳥取大学山岳部の学生を除いては岩登りを精力的にする人はいない停滞期にあった。

 そのうち、貴重な人口壁も台風の影響を受け使用禁止となり、それに追い討ちをかけるように、仕事がめちゃくちゃ忙しくなり、クライミングを止めざるをえなくなった。約半年間、クライミングをしなかった。それを取り戻すため、当時仕事場であった、山奥の廃校にコンパネ8枚分(縦2枚×横4枚)のプライベートウォールを作った。材料は廃校の一室にあったコンパネや角材を使用した。この部材を発見したとき、その建築部材が、「これで人工壁を作ってくれよ」と言うインスピレーションを感じた。何の迷いも無く、空いた教室に人工壁を作りだした。その部材には「ヤグラ」と書かれてあり、昔それが、分校在りし頃、学芸会や運動会で児童達に使われていたのだろうと、その古きよき時代の学校風景に思いを馳せながら、トレーニングボードを作った。ボードのモデルは、京都大学の明誠館の地下にあったフリークライミングクラブの人工壁(通称M地下ボード)であった。この壁は、私に、やる気さえあれば自分で人工壁を作ってトレーニングできることを教えてくれた壁でもあった。

 これまでのブランクを取り戻すべく、仕事の合間に、このプライベートウォールでトレーニングを開始した。ようやくトレーニングも軌道に乗り身体も元に戻りだしていた、そんな矢先に衝撃的な事件が起こった!それはお盆を迎えようとしていた頃、なにやらこの部落の方々が、わらわらと廃校に集まり、「ない!ない!」とか「全然たわん(足らん)!」「建たん!」とか言って大騒ぎしていた。見ると、なんと!人工壁の残りの部材で、盆踊りの櫓を建てようとしているではないか!夏の午後、蝉の声が頭の中で鳴り響き、暑さと後悔とが混ざり合い、思わず眩暈がした。やがて、部落の方が、ホールドの付いた、変わり果てた姿の櫓を発見し、「アーッ!なんだいやーっ、このブツブツは!」という悲鳴にも似た叫びが、蝉の声が鳴り響く廃校中に響き渡った。部落の人々は、まるでUFOを見るかのように、目をパチクリさせて、それを眺めておられた。これが、彼らにとって最初で、最後の人工壁との劇的な出会いであった。一時は、「盆踊りができん。ご先祖様を迎え入れられん」と大騒ぎになった。後日、役場よりお叱りを受け、撤去命令がおりた。

歳月はさらに流れ、私とクライミングの距離もさらに開いた。撤去した部材やホールド等が、単なる粗大ゴミに変貌しようとする頃、鳥取県山岳協会の亀尾氏に、その受入先が米子市内にないかを照会した。そして、米子工業高校の山岳部の部室内に移設されることが決まった。平成10年の暮れであり、規模はコンパネにして、高さ2枚分、幅5枚分、傾斜135度であった。

(平成10~13年)
米子工業高校時代は、使用が毎週水曜日19時以降のみと極めて限定された使用状況だった。そして、ちょくちょく使用禁止があり、ほとんど練習にはならなかったが、それほどクライミングに対してモチもなく、サロンとしての役割の方が高かった。そのため、この場所でよく山行計画等が話し合われたりした。この頃の常連メンバーは、河合さん、井上さん、香田さん、山田さん、安井先生、岩波さん、小坂さんくらいだった。これが名和ボード建設の際の核になったメンバーでもあった。どうでもいい事であるが、この頃の私の体重は最高潮を迎え85kg近くあり、役場の2階に上がるのに息を切らせていた時代で、身体検査をすると、中性脂肪値や悪玉コレステロール等、さまざまな数値が赤字で記載されており、所見の欄には、肥満で、なにやらこの先あまり長生きできないような事が書かれてあった。当然、クライミングのほうも、2ルンゼの入り口にある5.9のルートも普通にテンションを入れていたし、その奥にあるフェイス(11a~b)に至ってはハングを越せずに敗退するという有様だった。自分自身クライミングは心臓に悪いので辞めようと考えていた。

 さて、話は戻る。山岳部の高校生達は、当初このボードに少し興味を見せたものの、どうやって登っていいかが分からないことから、やがて誰もがさわらなくなってしまった。そしてボードは単なる邪魔な粗大ゴミと化し、終には撤去の上、出ていくことになった。これにより、次の移転先をみんなで真剣に探し回ったが、なかなかいい場所が見つからなかった。私も駄目もとで、名和のトレーニングセンターに移設できないか、提案書を町長に提出した。これが、予想外の進展を見せ、当時の堅物の教育長もそれに興味を示した。その理由は、学校週休2日制導入にあたって、その休日を児童がどう過ごすかという問題の一つの受け皿になりはしないかという期待からだった(とんだ当て外れになったのであるが・・・)。とりあえず撤去される数日前に、その当時の教育長をボードに案内した。そのボードのあまりにも汚さ、薄暗さ、チンケさに対し、しばし絶句し、無言のまま帰っていかれた。せめて、ミラーボールでも点灯さしておけば良かったと後悔した(エッ・・・余計にダメって?)。

 大失敗の現地視察後に、どういう訳か町長からのゴーサインが出た。その条件として、設置する場所に調和したものを作る(汚いのはダメ)という条件が付いた。そのためリード壁はイエローの型枠用のコンパネを使用した。壁の構想は私が素人考えで、こんなん本当に作れんのかな?と思いながらいい加減に書き、それを鳥取県山岳協会員であり工務店を経営されている山本氏が具体的に設計された(この設計は本当に大変だったと思う)。そして、それをもとに算出した費用を県山岳協会が全面的に負担することになった。その額は約80万円くらいであったと思う。この当時はお金のことから設計や施工のことまで県山岳協会の全員が奔走した。そして、これが元になりクライミング委員会なるものも立ち上げられたと記憶している。


第4回名和クライミングクラブ総会を終えて
                               平成18年4月
                               事務局長 辻  信 広
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by nawaclimbingclub | 2006-05-11 10:17 | 局長のひとりごと | Comments(2)
人工壁の誕生
平成9年、境港で夢港博覧会が開催され、その時に、仮設で体験用クライミングボードが設置された。これが、鳥取県における、初めての人口壁であった。この時は、あの杉野保氏にセッターを依頼して、鳥取県山岳協会主催のクライミングコンペが開催された。

 次に、鳥取大学山岳部によって、常設のボルダリング壁が大学構内に設置された。その頃の大学生(奥平氏がその中にはおられました)を中心に、にわかにスポーツクライミングが活発になるが、その広がりは、大学キャンパスに設置されたことと壁の内容がマニアックすぎたこともあり、あまり一般的には普及しなかった。その後も、ミニ国体で船上山自然の家に仮設の人口壁が設置されたりはしたが、あくまでもその大会期間中の設置であり、選手のみしか使用しなかったので、やはりその発展はなかった。

 それを、解消しようと、鳥取県山岳協会会長と理事の亀尾氏が中心となり、どこかに常設のボードを設置できないかと、自治体に働きかけを行ったが、なかなか思うように事は成就しなかった。そんな中、赴任早々の私は、職場に訪ねてこられた両氏を現大山町長(この時は、まだ一介の職員でした)から紹介された。これが名和ボード誕生の運命的な出会いになることを、この時は夢にも思わなかった。

                  第4回名和クライミングクラブ総会を終えて
                               平成18年4月
                               事務局長 辻  信 広
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by nawaclimbingclub | 2006-05-08 09:44 | 局長のひとりごと | Comments(6)
組織の発展段階
 少しの間、皆さんには、稚拙で、退屈な昔話に付き合ってください。
 二代将軍、秀忠の治世、江戸城下は、ようやく首都としての体裁を呈し始めました。そんな時に、三代将軍家光は誕生しました。城下の町人たちは、それを祝うべく、それぞれの職人集で、神輿を造り、神社に奉納することになりました。刻限は、1ヶ月以内です。

 火消し集は、カシラの意思の元、富士山を象った神輿を作り始めました。普段、火消し達は、あまり経験がないものだから、慣れない手つきで、大工道具を操り、カシラの命令のままに、一生懸命、作りました。

 町の商人達は、何を作ろうかと、皆で相談し、やがて、鶴亀を屋根の上に抱いた神輿を作り始めました。商人たちも、慣れていませんでしたが、一々、みんなで相談し、協力し合いながら、神輿を組み立てていきました。

 大工の棟梁たちは、最初、世間話に花を咲かせ、酒を飲み、久しぶりの再会を大いに楽しんでいました。そして、日光東照神宮の陽明門を象った神輿を作ることが、ようやく決まりました。変った事に、彼らは、申し合わせることもなく、ばらばらに、それらの部分部分を、各々勝手に造りだしました。ある棟梁は、干支や中国の故事を題材にした透かし彫りを彫り、ある棟梁は、柱細工、そしてある大工は、それらを組み上げると言う風に、各々の得意な技を存分に発揮し、楽しみながら造りました。

 さて、最初に出来上がったのは、カシラの指揮の元、ものすごい勢いで造った、火消し集の神輿です。その風合いは、富士山がやや聳え立ちすぎて、荒削りではあるものの、力強く、勢いのあるものになりました。
次に出来上がったのは、商人たちのものです。その作風は、緻密で調和の取れた、優雅なものになりました。
最後にできあがったのが、大工の棟梁たちのものです。のんびりと楽しみながら造っていたので、それは刻限ぎりぎりというものでした。その作風は、個々の大工達の作風があらわれ、混然と一体となったものでしたが、それらが不思議と調和し、ユニークなものになっていました。
この3つの神輿は、それぞれにいい出来栄えで、将軍も至極満足されましたとさ・・・。

話は、大変長くなりました。この話は、実は、組織としての発展度や成熟度をあらわしています。すなわち、形成期に求められるのは、カシラのような、一人の独裁者であり、その人の情熱によって、周りの人々は動かされ、そして、一つのものを作り上げていきます。その時には、あまり話し合いは必要とせず、したとしても、さほどの成果は顕われないのです。そして、それは荒削りですが、勢いがあり、力強いものであります。反面、構造的には、一人に寄りすがっているので、脆弱です。
成長期に求められるのは、その組織の構成員達による、結束と協力で、それによって、一つ一つ物事を進めていく事です。それにより均整の取れた調和と組織の強さを生み出します。
そして、究極の組織の姿が、棟梁たちなのです。それぞれが、自分達の領分を心得ており、それぞれの判断で動き、一つの方向に向かうというものなのです。

名和クライミングクラブ設立以来、今年で、足掛け3年になります。今回の組織改変で、幹部の数が大幅に増えました。我々の今ある組織の姿は、一体どの段階のものなのでしょうか?間違いなく、火消し集から、商人集へと変貌しつつあると、私は思います。そして、この調和を円熟なものにしたとき、棟梁たちの姿に近づくのだと思います。そのためには、各々が、そういう意識を持ちながら、活動していくことが大切です。その意識とは、名和ボードをこれからも自由に使っていくためには、やはり、周りから認められ、節度ある使用や維持・管理をしていかなくてはならないという事です。この自分達のボードを自由に使うことと、その維持管理を責任もってやっていくことは、表裏一体の関係にあり、この「自由と自治」の意識こそが、当クラブにとっての基本理念とするものであると、私は信じております。

平成17年4月6日(水)第3回名和クライミング
クラブ総会のあった日の深夜、自宅にて思ったこと。
                 名和クライミングクラブ事務局長 辻  信 広

※この物語は、フィクションであり、史実や時代考察も、でたらめです。分かり易く説明するために勝手に作ったものです。
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by nawaclimbingclub | 2005-05-10 15:31 | 局長のひとりごと | Comments(3)